~ セイノーロジックス前社長、渡辺景吾が執筆したエッセイ「ゐねむりゑびす」から ~
幼なじみのH子は趣味が声楽で、いつもソプラノだかメゾソプラノだかのキンキン声で練習している。あのさァ、もっとカジュアルに行こうぜ、というボクを汚い虫でも見るような目でにらんでまたキンキンと歌を歌う。声楽を始めてからやたらガタイが大きくなった。あのさァ、カラオケでもそんな感じなの? それじゃ彼氏どころか友達もできないだろ。飲みかけのコーヒーを下げられたが、好物のエクレアは死守した。
しかし、蓼食う虫も好きずき。ついにこの声楽太りしたH子にも春が来て、ボクも結婚式に出席した。モヤシっぽい優しそうな旦那に少々同情し、また感謝もし、お幸せにと祈った。宴もたけなわ。友人たちの自己チュースピーチが終わると、なんと夫婦で合唱するという。そうか、声楽仲間だったのか。
しかし恐ろしいことに、歌はH子のワンマンショーで、旦那はボソボソと一歩下がって口を動かしている。おいおいモヤシ君、なんでこんなことをOKしちゃったんだよ。これは君の結婚式でもあるんだぜ。声楽仲間のはずないよな、これは。きっと君はカラオケだって行ったことないんだろう。
招待客は一歩も二歩も引いて青ざめている。この空気が読めないのか。やめるなら今しかないぞ、今ならなかったことにしてやる、と汗ばむ拳を握りしめたがH子は自分を選ばれた天女と勘違いしているのか、胸の前で手を重ねて完全にトランス状態だ。しかも中の上というハンパな上手さなので笑うに笑えず、なにもみんなの前で、とみんなが思った。旦那は青い顔になって口パクパク。旦那のご両親は、蘇った死体でも見たかのように凍り付いている。うわーヤバ。
それから3年。H子は歌う女王蜂となってますます太り、働き蜂のモヤシ君が疲れて帰宅するとソプラノで癒しているらしい。幸せで良かった。